とりあえず、
その場合、素ではやれないので、演じることになります。
演技を重ね、時には嘘もつきながら、「目指したいもの」に擬態する訳です。
その「擬態」を、
涙ぐましい努力と捉えるか、
とてつもない欺瞞と捉えるか、は
まぁ自由な訳だけども。
おうおうにして「擬態」派の子たちは
「欺瞞だ」と思ってしまいがちです。
私も含め。
あー、嘘だ、欺瞞だ、虚飾だ、誤魔化しだ!
なーんて。
でもじゃあ本能にあかせて振る舞ったら・・・
ただの人でなしになってしまう(!)から、
それはイヤだ、と思う自分もいます。
「世界」の中でそれなりに振る舞うこと。
それに要する努力の大きさからあぶり出される、
「素の自分」のダメさ加減。
自分の中では上手くやれたことも、
世間的には「平均以下」だったりするし、
ちょっとくらい誉められたってちっとも嬉しくなかったり。
「だって嘘だもの」
でも、
素の自分も自分だし、
擬態している自分も自分。
届かないところを目指して
ビヨンビヨンとジャンプしてみたり、
時には面倒くさくなってゴロゴロと怠けてみたり、
そんな時に限って何かやらかして自己嫌悪に陥ってみたり、
そんな自分も自分。
「立ち位置」の違う2つの自分を繋ぐのは、
そこに向かおうとする自分の姿勢だったりする。
こないだ某所で既につぶやいてしまったのだけどw
自分の「スタート地点」を点Aとして、
擬態の到達地点を点Bとする。
で、点Aから点Bへのベクトルを考える。
そのベクトル自体が、「私」の本質なんじゃないかなと
最近はそう思う、ようにしている。
位置だけでなく、
方向のあるエネルギー。
スタート地点がどこであれ、
そこから何かを目指すとすれば「目指す自分」だし、
目指さないとすれば「目指さない自分」。
そういう風にして最近は、
点と点の「乖離」でなく
「繋ぎ方」に目を向けるようにしてる。
(だって乖離に目を向けるとドツボるんだも)
最近、隣人によく諭される。
曰く、
人間は、120%の力を出すことも出来るけど、
120%を出し続けることは出来ない。
君は「120%を出し続けられない」と自分を責めすぎ。
私が「並」になるには120%の力が要る。
でもそれを出し続けるのは確かに不可能だ。
もっと戦略的に考えないといけない。
私は「点B」に向かいたいと今も思っているのだから、
如何に「点A」からそこに向かうかを考えないといけない。
上手くいかないことを全て「点A」のせいにしてもいけないし、
「点B」として何か達成できたならベクトルの成長として喜べば良い。
・・・意外と「点B」というのは
誰にとっても「演技」であり「ふり」であり、
円滑さと快適さの「演出」なのかもしれないと
最近は思う。
「表面的に」でも上手くやるというのは
かくも大切、かつ難しいことなのだ。
という訳で
頑張れ私。